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大阪城復興80年 アンチ徳川、象徴する天守閣

 今年は大阪城天守閣の復興八〇年に当たる。復興当時、この鉄骨鉄筋コンクリート製の天守閣と、陸軍第四師団司令部、紀州御殿などからなる本丸一帯は、「大阪城新公園」と名付けられ、戦後は市民の憩いの場となった。

 この復興天守閣が再建された天主台にはかつて徳川幕府による再築大坂城の天守閣が乗っていたが、寛文五(一六六五)年に落雷で焼失し、以後、天主台だけとなった。その上に、「大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)」に描かれた豊臣時代の天守閣が再建されたのであるから、土台は徳川製、天主は豊臣風という「奇妙」な合体が出現したのである。

 この奇妙さは、天主台に合わせて、なぜ徳川時代の天守閣を再建しようとはしなかったのか、という問いを立てれば理解される。徳川の天守閣の存在を消し去ろうとする想(おも)いが、当時の大阪にあったのである。それは同時に徳川の大坂城を忘れることであり、大坂城内に暮らす武士たちを忘れ去ることでもある。

 ■二の丸と本丸は「空白」

 「大坂細見図」「摂州大坂全図」など、江戸時代の大坂で発行された大坂図を眺めていると、大坂城の二の丸と本丸は、「御城」と書かれるだけですべて空白である。まるで構造物など何もなく、誰もいないかのような空白が、大坂城一帯を覆っている。徳川の大坂城を忘れたいという気分を思わせるが、じつは、将軍=公儀の城への配慮が、この空白を生み出している。城内を描いてはいけないのである。

 その結果、江戸期の市民の目線に届くのは、追手口・京橋口・玉造口の三門と千貫櫓(せんがんやぐら)・伏見櫓などである。画家、玉手棠洲(たまてとうしゅう)(一七九五?~一八七一)の描く「華城八景」には、町民たちの目の届く限りの大坂城が描かれている。

 他方、大坂城内を詳細に描く絵図があった。大坂城代や大番頭といった城内勤務者が、マニュアルとして携行した絵図である。大阪府立中之島図書館所蔵の「大坂諸絵図」はその典型であるが、大坂城の全景はもちろん、本丸・二の丸・三の丸の建物や部屋の図などの五十三枚からなる。城内の秩序を守るために動線が朱で書かれているのが興味深い。

 このマニュアルは図化されているが、建物の由来などは文字情報に限る。そこで文字による大坂城案内が生まれる。「摂営秘録」「金城聞見録」などと仰々しい題名が付けられ、複数の写本が存在していた。

 ■第一級の軍事基地だった大阪城

 わたしの推計では大坂城内の武士の数は、約三五〇〇人、武士の総数約八〇〇〇人の四三%に当たる(もちろん同伴家族も含む)。

 この武士たち、いったん変事があると、城内の持ち場を固めた。たとえば天保八年二月十九日早朝に起きた大塩平八郎の反乱の時で、「定番(じょうばん)、大番、加番の集った所で、土井(利位(としつら)、大坂城代)は正九つ時に城内を巡見するから、それまでに各持口を固めるようにと言ひ付けた」と、森鴎外は小説『大塩平八郎』で描く。もちろん手ぶらではない、武装した上でのことである。

 「摂営秘録」には、鉄砲大筒小筒二五〇〇挺など、城内多聞櫓に保管された武器武具の数を載せている。大坂城は、まがうことなく第一級の軍事基地であった。西国支配の要として、江戸や各地の大名・旗本たちが赴任したのである。ならば彼らが大坂城を出入する際には、行列があった。京橋口を出て京橋を渡ると、京街道である。二〇〇~三〇〇人の陣形を整えた行列が、そこを進んだのである。描かれた行列図が知られていないことは、行列のなかったことを意味しない。江戸時代の大坂はまた、武士の町でもあった。(藪田貫)

【プロフィル】藪田貫

 やぶた・ゆたか 関西大学文学部教授、同大大阪都市遺産研究センター長。昭和23年、大阪府松原市生まれ。専門は日本近世史。著書に『武士の町 大坂-「天下の台所」の侍たち』(中公新書)など。
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