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桑田・清原のPLと名勝負を繰り広げた池田高校、新たな旋風を起こせるか

27年ぶりの甲子園で、劇的な逆転サヨナラ
♪池高 池高 おお われらが池高

 久々に流れた校歌に、ちょっと感傷的になった。おそらく4万4000人の観衆の何割かは、同じ思いを共有したはずだ。なにしろ、センバツには27年ぶりに出場した池田。甲子園で勝つのは、24年ぶりだった。岡田康志監督はいう。
 「大声援に後押しされ、終盤に力以上のものが出ました」

 センバツ高校野球2日目、第2試合。池田は、同じく27年ぶり出場の海南と対戦した。終盤まで3点リードされる苦しい展開。往年の山びこ打線は沈黙し、7回までわずか1安打だ。ところが、8回に目が覚めた。4本の長短打で1点差とすると、9回には代打で途中出場していた林涼平のヒットで逆転サヨナラ勝ち。先頭打者がヒットで出たあと、併殺と思われた打球が相手エラーで無死一、二塁とチャンスが広がり、さらに送りバントが内野安打となった無死満塁からの劇的な決着だった。

 甲子園の魔物を味方につけてのサヨナラだから、校歌がより感傷的に聞こえた。敗れた海南の森本直寿監督は、こううめいたものだ。
 「リードしていてもそう感じさせない、目に見えない力があったように思います」

荒木大輔の早実、KK(桑田真澄・清原和博)のPLとの伝説の名勝負
 高校野球は80年代前半、さながら戦国時代のように群雄が割拠した。
 79年に箕島が春夏連覇すると、80年には荒木大輔の早稲田実が頂点まであと一歩と迫る。そして82年には、金属バットにパワーを乗せた池田の山びこ打線が、その荒木の全国制覇の野望を粉砕。そのストーリーは、史上初めての夏春夏3連覇を目ざした池田に、PL学園の1年坊主・KK(桑田真澄・清原和博)が圧勝するのだが、このあたりの年ごとの盟主の推移は、信長・秀吉・家康と連なる大河ドラマのようだ。

 で、池田である。畠山準(元横浜など)をエースに優勝した82年夏に続き、83年のセンバツも制した。史上4校目の、夏春連覇だった。このときのエースが、水野雄仁(元巨人)だ。前年夏の早実戦では、荒木を打ち砕く大アーチ含む4安打6打点と野手として活躍し、83年春はエースとして3試合完封を含む5試合オール完投。自責点ゼロ、防御率0.00という圧巻ぶりだった。のち本人に聞いたことがあるのだが、「あのセンバツの抽選では、相手どうこうより、朝の早い第1試合を引かないようにとだけ願っていた。それほど調子がよく、どこが相手でも勝てると思っていましたから」

 事実、東の横綱といわれた帝京が初戦の相手でも、11対0と赤児の手をひねるようなもの。その後も水野の力投と山びこ打線の爆発で、頂点にたどり着いた。



愛すべき名将、蔦文也監督のもとで
 急峻な四国山地と阿讃山脈に囲まれた山間部にある山あいの町・池田町(現徳島県三好市)。池田のグラウンドのレフト後方には四国三郎・吉野川と山脈があり、その山にこだまする爽快な打球音からついたのが、山びこ打線という代名詞だ。初球からでもがんがん打ちに行き、九番打者でもホームランを放つ豪快なバッティング……。そしてその人気は、蔦文也監督の愛すべきキャラクターで、さらに増幅した。

 社会人・全徳島時代は都市対抗に3度出場し、プロ野球・東急フライヤーズにも在籍した蔦が、池田の監督になったのは1952年のことだ。71年夏、甲子園に初出場し、74年のセンバツでは部員わずか11人というさわやかイレブンで準優勝。「山あいの子らに大海を見せてやりたかったんじゃ」という詩情、「ワシから酒をとったら野球しか残らん、野球をとったら酒しか残らん」と公言するキャラクター、そして七福神の寿老人のような独特な風貌も相まって、池田は史上まれな人気チームとなった。79年の夏も、春夏連覇する箕島に敗れたが、準優勝。いまチームを率いる岡田は、そのときの選手である。

 かつて、さわやかイレブンのときのエース・山本智久さんに話を聞いたことがある。やはりイレブンのメンバー・石川武吉の営む、徳島市内の焼き鳥屋『武吉』でのことだった。
 「僕らが入ったころは、ブン(蔦)も50歳前のバリバリです。練習が厳しいから、新入部員は10人以上いても、次々にやめていって残るのは4、5人。人数が減れば、さらに一人アタマの密度が濃くなるしね。実は74年、センバツ出場が決まってからも、一人やめているんです。だからイレブンではなく、12人だったかもしれない。それでも2学年で11人なら、多いほうじゃなかったかな」。

 当時の蔦は、のちいわれるような攻めダルマではない。少々芯を外れても、力があれば打球が飛ぶ金属バット導入以前。74年のセンバツ初戦はホームスチールで勝っているように、野球は緻密だった。バントに足をからめ、アウトと交換に塁をひとつずつ進めていく泥臭い野球である。だが、細かい野球では自らの母校・徳島商になかなかかなわないと痛感。打って打って打ちまくる、打撃重視のチームに徐々に変貌していった。なにしろ練習は、キャッチボールもろくにしないでいきなりフリー打撃である。当時では革新的だった筋トレに積極的に取り組み、打力を磨いた。

旗はもうある、でもええほうの旗がほしい
 畠山や水野といった超高校級が投げるタマをふだんから打つのだから、なみの投手なら苦もなく打ち返す。畠山がいうには、「投げるのはブルペンより、つねに実戦形式。多ければ、1日300球くらいですから、どうしても手を抜きたくなるじゃないですか。だけど、ブンがネット裏でスピードガンの数字をチェックしているから、僕や水野が、ちょっと手を抜いて110キロとか115キロのストレートを投げたらすぐさま"ちょっと来い!"(笑)」

 ノックの腕も伝説的だ。畠山の時代は60歳目前だったから、さすがに息は上がっていたが、「びっくりしたのはね、外野に犬がいたらそれを狙ってライナーを当てましたからね。かわいそうに……(笑)」。酒もよく飲んだ。74年のセンバツ、決勝で対戦した報徳学園・福島敦夫氏はいう。「いまなら写真週刊誌ものだけど、決勝の前日、蔦さんと飲んだよ。そのころは僕のほうが若かったから、酒では勝ったね(笑)」。

 そういう監督に率いられたチームも、豪奢だった。82年の夏は、準々決勝で早実から14得点、決勝では広島商から12得点。山びこは、鳴り止まない。だが水野によると、それも結果オーライだったというのがおもしろい。
 「(蔦監督は)なにか策を仕掛けては、失敗するんです。ノーアウト一塁でバントをすれば失敗、そのランナーもけん制でアウトになって、なにもできないから打たせたらそこから点が入ったり。じっとしとけよ、と思いましたね(笑)」。

 その82年夏、1回勝ったら満足だったという。早実戦の前には、みんなお土産を買い、荷物を整理して、帰る準備をしていた。ただ2年の水野らは、負けて帰るとすぐ新チームの練習だから、できるだけ甲子園に長くいたい。

 「それが早実にも勝っちゃって(笑)。荒木さんが5回連続出場の最後だったから、オレらは悪者みたいでしたね。それで優勝するとチームが大騒ぎされて、次のセンバツ、僕はすごい気合いを入れていました。畠山さんが抜けてピッチャーがどうこう、といわれたくなかったのでね。で決勝の前日のメシのとき、ブンが"(センバツの準優勝)旗はもうあるから、どっちでもいいわ。でも、ええほうの旗がほしいの"」


92年の夏を最後に蔦監督は勇退
 そうして池田は、"ええほう"の旗を持ち帰ることになる。そういうチーム。水野らの世代は83年夏、桑田にひねられて史上初の3連覇はならなかったが、池田はその後、86年のセンバツでも優勝を果たしている。
 蔦は、92年の夏を最後に監督を退いた。

 今年のセンバツでの白星は、そのとき以来24年ぶりの甲子園勝利ということになる。水野が話してくれたことで印象的なのは、「高野連の人から、高校野球で人気が出るチームの条件、という話を聞いたんです。田舎で、県立で、名物監督がいて、人数が少なくて、しかも強い、これが5つの条件。池田というのは、全部それに当てはまっていたんですよね」

 かつての山びこほど豪快な印象はないが、そもそも緻密さから始まったのが池田の野球である。いつかふたたび、山びこが聞こえてくる。
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